鳥取たくみ工芸店

2020/12/28 11:40

曳田川が流れる谷に面した棚田の合間、石垣の上に大きな平屋の工房があります。牛ノ戸焼六代目の小林孝男さんに制作工程を案内していただきました。敷地の下のほうにある、草の生えた小山を指差し、これが荒土だと言われました。曳田川の流れにより堆積した白い土で、周囲の田んぼから掘り出して積んであるものです。この土を求め、江戸時代末期に石見焼の産地から、初代梅五郎が職人を引き連れて移住します。当時は60人ほどの職人が働いていたそうです。当初は器のほか瓦も作り曳田川を下って賀露港まで運び、北前舟で全国に流通させる大規模な窯場でした。瓦一枚に3kgの粘土を使うといいますから、この地で大量の土が採掘され、今も尽きないことに驚きます。特に牛ノ戸の土はよく焼締るため、他の窯場では作るのが難しい「酢どっくり」を量産していました。1日100本作っても追いつかないほど需要があり広範囲に流通し、北海道でも発見されています。鉄釉で書かれた「大極上酢」の流れるような筆跡はまさに量産の手仕事の美を今に残しています。昭和に入り水道や工業製品の普及により、はんどうや、陶器の民具の需要が下火になっていたころ、訪ねて来たのが吉田璋也です。

 

昭和6年、鳥取で医院を開業した吉田璋也が地元の焼物を物色した中で、目を引いたのが牛ノ戸焼の五郎八茶碗でした。庶民が酒やお茶を飲む際に使う大ぶりな茶碗に惹かれ、すぐに窯を訪れました。四代目小林秀晴は吉田の情熱や、新鮮な視点に同調し、新作民藝の制作に没頭します。吉田は窯出しに柳宗悦を伴い、評価し、改良を重ね、作った器のほとんどを買い上げました。現在の工房の隅に棚があり、コーヒーカップやぐい呑みなど、いくつかの器が並んでいます。鳥取民藝美術館に収蔵されている品に劣らぬものです。吉田の来訪以降大量に生産された新作民藝の器の中でも、手本となる良作を保管し、作陶の指針としています。現代は更に生活様式が変わり、人気のあるアイテムにも変化がありますが、吉田璋也が残した美の基準は今も生きています。

 

話を伺いながら工程を辿ります。土は手作業でハンマーで砕いて細かくし、漉して水に浸す、を繰り返します。しばらく浸け置き水分を抜いた粘土を素焼の盛鉢に盛り天日で乾かし、適度に乾燥したタイミングで取り込んで保管します。釉薬は、藁を燃やして灰にした藁灰、暖房用のストーブで燃やした広葉樹の木灰、長石など、自然の素材を加工し、井戸水に漬け込んでアクを抜きます。はんどうに張った水が凍って割れるため、冬は釉薬作りを休みます。材料業者から買えばいつでも届くところを、代々受け継いだ方法で続けています。地場の天然の素材を、水や風や太陽の力を借りて、時間をかけ、感覚をたよりに材料を整え、器という形に集結していく様子が伺えました。

 

穏やかな口調で、地形のこと、自然のこと、素材のことを論理的に語られる小林さん。福島県の出身で、設備設計の仕事をした後、結婚を機に牛ノ戸焼の作り手となりました。成分や化学変化をよく理解しながら、あえて古くて不便な方法を選ぶ、そんな生き方に楽しみを見出しているようです。

 

工程の最後に案内された登窯。代々何度も築き直されたものです。6室あった登窯は、2016年の鳥取県中部地震で震度4強の揺れに見舞われ破損し、1年ほどかけ大掛かりな改修をしました。登窯での焼成は、大変な労力がかかります。しかし苦労して窯詰めしたあと火を入れ煙が上がるさま、窯を冷ます数日間の穏やかな日々など、登窯を焚く楽しみを愛おしげに語られました。先祖伝来の手法を守ってきた孝男さん。「これからのことは、跡を継ぐ息子が決めることだから。」と七代目の遼司さんを尊重しながら、仕事の面白さを未だに追求する探求心。代々積み重ねた技術と、世代ごとの個性が伝統を作っています。